第一話 畑に残る声

島の朝は早い。
青年は目覚ましよりも先に目を覚ました。
波の音が、遠くで一定の間隔を刻んでいる。
都会にいた頃には聞こえなかった音だ。

親の後を継ぐと決めて、この島に戻ってきた。
決めた、というより、
そうするしかなかった、という方が近い。

父が倒れ、ほどなく亡くなった。
葬儀が終わり、家に残された畑と古い倉庫と、
使い込まれた農具だけが現実だった。

農業は、子どもの頃に手伝った記憶しかない。
父の背中を見ていたはずなのに、
いざ自分がやる番になると、
何も覚えていなかった。

畝の間隔も、肥料の量も、
水をやるタイミングも、
すべてが曖昧だった。

青年は畑に立ち、土を見下ろした。
芽は出ている。
だが揃っていない。
葉の色もまちまちで、
元気なものと、そうでないものが混じっている。

近所の誰かが通りかかると、
青年は軽く会釈をした。
相手も返してくる。

だが、その目は一瞬だけ畑に向けられ、
すぐに逸らされた。

その一瞬で、
何を思われたのかは分からない。
ただ、胸の奥が少しだけ重くなった。

「難しかな」

誰に言うでもなく、声が漏れた。
答える人はいない。
風が葉を揺らすだけだった。


数日後、青年は集落の小さな直売所に顔を出した。
父の代から世話になっていた場所だった。

何も出さないわけにはいかないと思い、
出来の良くない野菜を箱に並べた。

「戻ってきたとやろ」

背後から声をかけられ、青年は振り返った。
同じ島で育った年上の男だった。

「ええ」

「大変やろう。
 農業は甘くなかけんね」

笑っているのか、
労わっているのか、
判別がつかない顔だった。

青年は曖昧にうなずいた。

「親父さんは上手やったばってんねぇ」

その一言で、
胸の奥が少しだけ軋んだ。


別の日、今度は別の人に言われた。

「若かもんが帰ってきて、えらかねぇ」
「まぁ、続けばよかばってん」

続けば、という言葉が耳に残った。
続かない前提で話しているようにも聞こえた。

青年は、
誰かの言葉を一つ一つ否定することができなかった。
全てが間違いではないからだ。

実際、うまくいっていない。

それでも、畑に立っていると、
通り過ぎる視線を感じた。

直接言われることは少ない。
だが、目と間と沈黙が、
言葉の代わりになる。

「都会から帰ってきたらしい」
「跡を継いだらしい」
「でも、なかなかやろ?」

そんな声が、
実際に聞こえたわけではない。

ただ、
青年の頭の中で勝手に形を持ち始めていた。


誰かに手伝ってもらえば、
「媚びている」と思われる気がした。

一人で黙々とやれば、
「付き合いが悪い」と言われる気がした。

何をしても、
どこかに引っかかる。

青年は次第に、
人と目を合わせなくなった。

朝は早く、夕方は遅く。
できるだけ誰とも会わない時間を選んで、
畑に出た。

それでも、結果はすぐには出ない。
土は正直だが、時間がかかる。


雨が続いた。
畑の土は重く、水を含んで靴にまとわりついた。

芽が腐り始めているのが、
見ただけで分かった。

青年はしゃがみ込み、
一本の苗に指を触れた。

力を入れなくても、
根元から折れた。

その瞬間、
胸の奥で何かが切れた気がした。


畑の端に置いた鍬に、
泥が乾いて白く残っていた。

同じ鍬だった。
父が使っていたものだ。

柄の一部が黒ずみ、
金属の縁も少し欠けている。

父はこの鍬で、
黙って畑に立っていた。

誰かが何かを言っても、
振り向かず、
ただ手を動かしていた。

聞いていなかったのではない。
聞いた上で、
畑のほうを向いていただけだった。


翌朝、青年はいつもより少し早く畑に出た。
空はまだ薄暗く、島の端に灯りがいくつか残っている。

誰もいない時間だった。

青年は、それがいいと思った。

道具を並べ、黙って手を動かす。
昨日と同じ畑、
同じ作業。

結果がすぐに変わるわけではない。

それでも、
誰の顔も浮かばなかった。

人と距離を取ることは、
逃げだと思っていた。

だが、それは少し違った。

向く方向を決めるだけのことだった。

島の端っこで、
今日も作業は続く。

青年は土を見つめながら、
静かに息をした。


(第一話・了)

→島の端っこの物語