島の朝は早い。
青年は目覚ましよりも先に目を覚ました。
波の音が、遠くで一定の間隔を刻んでいる。
都会にいた頃には聞こえなかった音だ。
親の後を継ぐと決めて、この島に戻ってきた。
決めた、というより、
そうするしかなかった、という方が近い。
父が倒れ、ほどなく亡くなった。
葬儀が終わり、家に残された畑と古い倉庫と、
使い込まれた農具だけが現実だった。
農業は、子どもの頃に手伝った記憶しかない。
父の背中を見ていたはずなのに、
いざ自分がやる番になると、
何も覚えていなかった。
畝の間隔も、肥料の量も、
水をやるタイミングも、
すべてが曖昧だった。
青年は畑に立ち、土を見下ろした。
芽は出ている。
だが揃っていない。
葉の色もまちまちで、
元気なものと、そうでないものが混じっている。
近所の誰かが通りかかると、
青年は軽く会釈をした。
相手も返してくる。
だが、その目は一瞬だけ畑に向けられ、
すぐに逸らされた。
その一瞬で、
何を思われたのかは分からない。
ただ、胸の奥が少しだけ重くなった。
「難しかな」
誰に言うでもなく、声が漏れた。
答える人はいない。
風が葉を揺らすだけだった。
数日後、青年は集落の小さな直売所に顔を出した。
父の代から世話になっていた場所だった。
何も出さないわけにはいかないと思い、
出来の良くない野菜を箱に並べた。
「戻ってきたとやろ」
背後から声をかけられ、青年は振り返った。
同じ島で育った年上の男だった。
「ええ」
「大変やろう。
農業は甘くなかけんね」
笑っているのか、
労わっているのか、
判別がつかない顔だった。
青年は曖昧にうなずいた。
「親父さんは上手やったばってんねぇ」
その一言で、
胸の奥が少しだけ軋んだ。
別の日、今度は別の人に言われた。
「若かもんが帰ってきて、えらかねぇ」
「まぁ、続けばよかばってん」
続けば、という言葉が耳に残った。
続かない前提で話しているようにも聞こえた。
青年は、
誰かの言葉を一つ一つ否定することができなかった。
全てが間違いではないからだ。
実際、うまくいっていない。
それでも、畑に立っていると、
通り過ぎる視線を感じた。
直接言われることは少ない。
だが、目と間と沈黙が、
言葉の代わりになる。
「都会から帰ってきたらしい」
「跡を継いだらしい」
「でも、なかなかやろ?」
そんな声が、
実際に聞こえたわけではない。
ただ、
青年の頭の中で勝手に形を持ち始めていた。
誰かに手伝ってもらえば、
「媚びている」と思われる気がした。
一人で黙々とやれば、
「付き合いが悪い」と言われる気がした。
何をしても、
どこかに引っかかる。
青年は次第に、
人と目を合わせなくなった。
朝は早く、夕方は遅く。
できるだけ誰とも会わない時間を選んで、
畑に出た。
それでも、結果はすぐには出ない。
土は正直だが、時間がかかる。
雨が続いた。
畑の土は重く、水を含んで靴にまとわりついた。
芽が腐り始めているのが、
見ただけで分かった。
青年はしゃがみ込み、
一本の苗に指を触れた。
力を入れなくても、
根元から折れた。
その瞬間、
胸の奥で何かが切れた気がした。
畑の端に置いた鍬に、
泥が乾いて白く残っていた。
同じ鍬だった。
父が使っていたものだ。
柄の一部が黒ずみ、
金属の縁も少し欠けている。
父はこの鍬で、
黙って畑に立っていた。
誰かが何かを言っても、
振り向かず、
ただ手を動かしていた。
聞いていなかったのではない。
聞いた上で、
畑のほうを向いていただけだった。
翌朝、青年はいつもより少し早く畑に出た。
空はまだ薄暗く、島の端に灯りがいくつか残っている。
誰もいない時間だった。
青年は、それがいいと思った。
道具を並べ、黙って手を動かす。
昨日と同じ畑、
同じ作業。
結果がすぐに変わるわけではない。
それでも、
誰の顔も浮かばなかった。
人と距離を取ることは、
逃げだと思っていた。
だが、それは少し違った。
向く方向を決めるだけのことだった。
島の端っこで、
今日も作業は続く。
青年は土を見つめながら、
静かに息をした。